江戸時代の風情が息づく宮津の「寺町」を散策
古代から中世にかけては神仏の聖地として、戦国時代には日本海側の要衝、近世には北前船の寄港地として栄えた宮津地区。江戸時代初期には、現在の町の原型となる城下町が形成され、急速に発展しました。なかでも、近世以降の町の変遷を今に伝えているのが、宮津地区の西部に位置する「寺町」です。今回は、江戸時代の風情が残る「寺町」をゆったりと散策してみましょう。
歴史エキスパートによる案内で、いざ出発!
今回は、歴史のエキスパートであり宮津市教育委員会の学芸員をされている鶴岡衛大さんに、「寺町」の歴史や見どころを教えてもらいました。今回の記事では、その一部をご紹介します。
旧宮津藩の城下町は、大手川右岸に宮津城と武家屋敷、左岸には町人・百姓の居住区が整えられました。目指す「寺町」は、左岸にある金屋谷・小川町にまたがる「寺町」です。文字通り、さまざまな宗派の寺院が隣接するエリアです。
「寺町」の成り立ち
細川氏から京極氏の統治下に城下町が急速に発展
戦国時代、織田信長に丹後を与えられた細川藤孝が宮津城に居を構えて以来、城下町としての整備が進んだ宮津地区。江戸時代初期には、新たに藩主となった京極高知・高広親子の治世下で急速に発展し、政治・経済の中心地として、また天橋立への参詣の拠点としても栄えました。
人口増加に伴い、開拓された山野から砂礫が川に流れ出したことで湾岸部の砂洲が拡大し、さらにその砂礫を使った埋め立てによって市街地が広がったとされています。
江戸時代から昭和初期にかけて、金屋谷・小川町エリアには「西堀川」という水路が流れていました。現在の西堀川通りはその名残。宮津湾岸にあった藩の倉「御蔵」から物資を運ぶために使われていたとか。現在は大部分が道路の地下を通っていて見えませんが、「寺町」でその一部を見ることができます。
職人のこだわりが光る、見どころの多い佛性寺
彫刻師の技が光る山門
初めに立ち寄ったのは、「寺町」の入り口に位置する佛性寺。元和年間(1615〜24年)に創建されたという浄土真宗寺院です。
まず注目したいのは、山門に施された彫刻。江戸時代に丹後や丹波、但馬などで寺社仏閣の彫刻師として活躍した中井氏の六代目・中井権次正貞の作とされています。
「龍の丸彫りをはじめとする山門の彫刻は、締まりのある造形が素晴らしいです。躍動感があふれていますよね。架空の霊獣でありながらリアルさを感じさせる見事さがあります」(鶴岡さん)
螺旋状に巻き上がった龍の髭を、銅を使って表現している点も特徴です。
また門扉には、創建当時の藩主・京極氏ではなく、細川氏の家紋「九曜紋」が彫られている点が珍しく、市内の寺院ではこちらだけだそうです。
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本堂内で貴重なご本尊と襖絵を拝観
江戸時代に建てられた本堂の中には、鎌倉時代のものと伝わるご本尊・阿弥陀如来像が納められています。こちらのご本尊の特徴は、なんといっても唇。上下の唇をかたどった水晶をはめこんだ、全国で3例しかない珍しい技法なんだそう。さらに、唇からかすかに見える歯には金属が使われていて、作者のこだわりを感じます。
(※仏様のお顔はぜひ、現地でお参りの際に拝見してください。)
ご本尊を拝観したあとに目を奪われたのが、須弥壇の両脇を彩る襖絵。『源氏物語』第十四帖を題材にした「源氏物語澪標図」です。住吉大社(大阪)を参詣する光源氏の牛車ときらびやかな一行、沖合には明石の君が乗る船が描かれています。手掛けたのは、幕末の絵師・佐藤正持と伝わっています。美しい装束をふわりとまとった華やかな公達、毛並みの見事な馬たち、遠くで彼らを眺める庶民まで、一人一人が生き生きと描かれていて見飽きません!
佛性寺では、ご住職がいらっしゃれば本堂の中を拝観させていただけるので、寺務所でお声掛けしてみてくださいね。
宮津湾が遠望できる、宮津藩主をまつる大頂寺
藩主・徳川将軍家にもゆかりある寺院
次に訪れたのは、金屋谷の寺院のなかでも最も高台に建てられた大頂寺。慶長11(1606)年、京極高知が創建したものを、息子の高広が移転したと伝わる浄土宗寺院です。境内からは宮津湾と天橋立を一望できます。
境内には、高広の妻・寿光院の養父である江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠、その子家光の供養塔が建てられたほか、歴代徳川将軍の位牌が祀られています。最後の藩主である本庄家の御霊屋|《おたまや》があり、歴代の位牌を安置。ご住職がいらっしゃる際には、黒漆喰で仕上げられた荘厳な御霊屋を見学させていただけます。
また、隣接する日蓮宗寺院・妙照寺は、金屋谷では最も古い寺院。大頂寺と合わせて訪れてみてください。
小さなエリアのなかで、建造物の特徴や配置など、宗派ごとの違いを見比べられる点も興味深いですね。
大迫力の雲龍図が残る経王寺
郷土画家の魂がこもった天井画に注目
「寺町」をさらに西へ歩き、次に向かったのは日蓮宗寺院・経王寺。寺務所でご住職にお声かけして、ご案内していただきました。目的は、宮津藩出身の絵師として、幕末から明治にかけて活躍した和田屏山が描いた天井画「雲龍図」です。
本堂に入ると、天井いっぱいに描かれた龍が! 主に禅宗寺院の法堂(僧侶が仏教を講義する建物)などに用いられる雲龍図ですが、高さのある建物と違い、こちらは至近距離でその筆遣いを感じられて迫力たっぷり。
屏山については、江戸時代後期から明治にかけて京都画壇で一大勢力を成した岸派の絵師で、さまざまな逸話が残っています。
「定かではありませんが、酒代に絵を描いて渡していたという逸話が生まれるほど、お酒が好きな人だったようです。そのため屏山の作品は、寺院だけでなく個人が所蔵するものも多く残っています。岸派の絵師として、都で磨いた確かな技術を持ちながら、郷土画家として身近な存在だったのではないでしょうか」と鶴岡さん。
ご住職曰く「当寺の住職ともお酒を酌み交わすことがあったんじゃないか、と想像しているんですよ」と、屏山の人柄に妄想が膨らむ一同でした。
文化人の足跡が残る見性寺
与謝蕪村に寄せた河東碧梧桐の句碑
「三年にわたって宮津に滞在した江戸時代の俳人・与謝蕪村をはじめ、文化人が愛した土地でもあり、現在も文化活動が盛んな宮津。「寺町」自体は小さなエリアではありますが、町並みから地区の変遷が見えてきて興味深いです」と鶴岡さん。
万町通りの西端に建つ見性寺には、明治時代の俳人・河東碧梧桐が、敬愛する与謝蕪村に寄せて句碑が残されています。
句碑には、碧梧桐の筆によって、蕪村の俳句「短夜や六里の松に更けたらず」が刻まれています。
現代に続く多彩な建築物にも注目
町の人たちの手で受け継がれていく町並みと文化建築
明治時代以降は宮津カトリック教会をはじめ、和洋折衷の洋風建築も増え、町並みはより多彩に変化します。町の人たちの手で大切に維持・保管され、公民館や集会所として現役で使われている建物もちらほら。
細い路地をのんびり散策しながら、ゆるやかな時間が流れる「寺町」で、ここを行き交ったさまざまな人、過ぎ去った時代に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
<データ>
佛性寺
宮津市金屋谷879
TEL:0772-22-4028
拝観時間:本堂外観および山門は拝観自由
拝観料:無料
大頂寺
宮津市金屋谷881
TEL:0772-22-3340
拝観時間:本堂外観および徳川秀忠・家光供養塔は拝観自由
拝観料:無料
ホームページ:http://www.geisya.or.jp/~daityoji/daityoji-index.html
妙照寺
宮津市金屋谷883
TEL:0772-22-2996
拝観時間:本堂外観は拝観自由
拝観料:無料
経王寺
宮津市金屋谷886
TEL:0772-22-3061
拝観時間:本堂外観は拝観自由
拝観料:無料
見性寺
宮津市小川町759
TEL:0772-22-4020
拝観時間:山門および与謝蕪村句碑は拝観自由
拝観料:無料
ホームページ:http://kensyouji.main.jp/