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細川藤孝と明智光秀が築城!幻の海城「宮津城」の知られざる歴史とは

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かつて、宮津市役所周辺に宮津城があったことはご存知でしょうか。戦国時代から明治まで約300年に渡り宮津のシンボルだった今はなき宮津城(写真は明治4年〈1871〉頃撮影)。今回は、初代城主の細川藤孝(当時は長岡藤孝)が丹後に移封してから九州で大名になるまで、知られざる宮津城の歴史ストーリーにフォーカス。近年の最新研究も交えてご紹介します!

宮津城築城前、藤孝ファミリーが居城とした八幡山城

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信長から丹後を拝領した藤孝が最初に入ったのが、八幡山城とされています。宮津城が出来るまでの間、藤孝や忠興、玉子(ガラシャ)もこちらで暮らしていたことが想像されます。
写真は、八幡山城跡から撮影したもの。丹後最大級の山城として知られており、天橋立や宮津城を一望できる場所に立地していることから、現在でも絶景を求めてトレッキングに訪れる登山客も多いそうです。

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「山頂部には、丹後の山城としては珍しい石垣が残っています。丹波・丹後平定後、藤孝や光秀が改造したほかの山城と共通する天正年間前半の特徴を持つもので、天正8年(1580)に藤孝によって構築された石垣と考えられます」そう語るのは、京都府丹後郷土資料館の森島康雄さん。森島さんは長年に渡り城郭の発掘調査・研究をしてこられた方でもあります。

城作りの名人・明智光秀も築城に関わった宮津城

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信長から丹後を拝領した藤孝は宮津に居城を築きます。このことで古代以来丹後の中心地が、府中から宮津に移動したこととなりました。これは丹後にとって大きな転換期となり、近世都市宮津へと通じる出発点が細川時代の宮津城でした。
宮津城は、当時最先端の技術を駆使して造られおり、築城には忠興の妻・玉子の父であり城作りの名人と言われた明智光秀も深く関わっていたことがうかがえる資料も残っています。
天正8年(1580)8月21日付長岡藤孝宛の織田信長黒印状(上の写真)には「光秀とよく相談して丈夫に造るように」と信長からの指示が書かれています。
「光秀は琵琶湖に面した大溝城・坂本城の縄張(城の全体設計のこと)の経験があること、水軍を持っていたこと、信長の右腕でもあったことから今後の中国地方攻めにあたって対毛利氏の戦略も熟知していたことなどを考えると、海城にすること含めて、宮津城の選地と縄張に光秀が深く関わり、主導権を握っていたのではないか」と森島さんは考えます。

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これまで京極氏が改造する以前の宮津城を描いた絵図はないとされていましたが、近年、藤孝時代の宮津城の縄張を表している可能性が高い資料『丹後宮津城図(金沢市立玉川図書館所蔵)』(上の写真)が森島さんの手により発見されました。
「藤孝時代の宮津城は本丸が海に直接面しているのが特徴ですね。信長政権の中国攻めで対峙する毛利氏の日本海側の拠点、鳥取城攻撃を見据えた水軍の拠点でした。藤孝と光秀がタックを組んで築城された宮津城は、近世にたくさん作られる水城の先駆けとも言えるでしょう」

築城後の急展開「本能寺の変」とその後の細川家

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文化への造詣が深かった細川父子が茶会や連歌会を催し一流の文化人のサロンとなった宮津城ですが、藤孝が丹後の領主になってからわずか2年後の天正10年(1582)。光秀の謀反“本能寺の変”の知らせをうけ、光秀の親戚関係にあった藤孝は信長に対する追悼の意味を示すために髻(読み:もとどり/意味:髪を束ねた部分のこと)を切り、幽斎玄旨(ゆうさいげんし)と名乗ります。家督を忠興に譲り、舞鶴の田辺城にて隠居生活を送っていました。写真は田辺城資料館内の細川幽斎像。

時は経ち慶長5年(1600)関ヶ原の合戦の際、宮津城は、主力を率いて東軍に加わった忠興の留守中に攻められます。わずかの手勢で両方の城を守ることは不可能と考えた父幽斎は自ら宮津城を焼き払い、田辺城へ籠城。見事に絶体絶命のピンチを切り抜けました。その後、細川家は九州の大名へと大出世を遂げることになります。

築城から約20年、この世から姿を消してしまった謎多き細川時代の宮津城。今後の研究から目が離せません!

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