宮津市のシンボル・ガラシャ像に秘められた歴史ストーリーとは
カトリック宮津教会に隣接する大手川ふれあい広場に立っている銅像は細川ガラシャ夫人像です。この銅像は何度見ても美しく、さすがヨーロッパまで知れ渡るほどの絶世の美女ですね。一方で逆賊明智光秀の娘、悲劇のヒロインというイメージが強いガラシャですが、実はここ宮津にも住んでいた時期があり、しかも幸せな時間を過ごしたというエピソードが残されています。当記事ではガラシャの生涯をダイジェストでご紹介します。
細川ガラシャが宮津にやってきた理由は天橋立?
ガラシャとはキリスト教の洗礼名で本名は玉子といい、明智光秀の三女として生まれました。天正2年(1572)、織田信長は細川藤孝(幽斎)の嫡男・忠興との婚姻を命じ、天正6年(1578)に正式に結婚。玉子が16歳の時のことです。新婚時代は西岡の勝龍寺城(長岡京市)で過ごします。
2年後の天正8年(1580)、藤孝は丹後平定の褒美として信長から丹後国を与えられ、忠興や玉子とともに宮津へと移りました。宮津は都人の憧れの地「天橋立」があり、教養高い藤孝と忠興にとって文化的な面で最大の強みとなりました。
父光秀、宮津城を訪ねる。家族団らんで幸せのピーク
翌年、天正9年(1581)4月12日の朝、藤孝と忠興は宮津に父光秀を招いて、忠興が初めて亭主として茶会を開きます。後に忠興は、利休七哲にも数えられる著名な茶人となりました。
細川家父子、明智家父子、茶人の津田宗及や山上宗二、連歌師の里村紹巴といった一流の文化人も参加し、智恩寺(文殊堂)や船の上で天橋立の風景を愛でながら茶会や連歌会を催したことが記録に残っています。
「(下の写真)天橋立の松並木左側が穏やかな内海、阿蘇海(あそかい)です。こちらで舟遊びをしたようですね」。10年に渡りガラシャの足跡を辿る展示活動や講演をしてきた「丹後宮津桔梗の会」玉手さんは語ります。
「宮津城では玉子や孫たちと光秀が対面したことが想像され、家族団らんのひとときを過ごしていたかもしれませんね。天橋立の風景を見るたび、結婚する前の数年間、琵琶湖のほとりに立つ坂本城で過ごした良き時代を思い出して心穏やかな日々を送っていたのではないでしょうか」
“本能寺の変”で運命が一変、味土野(みどの)幽閉
玉子の運命が一変するのが、翌天正10年(1582)に起こる父・光秀の謀反“本能寺の変”。忠興は逆賊の娘となった玉子との離別を決意、その後、味土野(京丹後市)へ玉子を幽閉し、豊臣秀吉への信頼回復に努めます。2年が経ち幽閉を解かれた玉子は忠興と復縁し、大坂玉造(大阪)にある細川屋敷へ移り住みます。
「味土野は実際に訪れると豊かな自然に囲まれた場所、まさに秘境です。ガラシャの命を守るために誰にも見つからないような場所にかくまっていました。忠興から愛されていたことを感じさせますね。現在、味土野には『味土野ガラシャ大滝展望所』という観光スポットもありますよ」と、玉手さん。
信仰を貫いたガラシャの最期
大阪に移り住んだ頃に玉子はキリスト教に出会い、心の支えとなっていきます。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦にてガラシャは敵方・石田三成の人質となることを拒み悲劇的な最期を迎えます。自ら大阪の細川屋敷に火を放ち家臣に手討ちを命じ、信仰を貫きました。享年38歳でした。
ガラシャ像は川向こうにかつてあった宮津城を眺め、細川家と宮津市民の幸せが未来永劫続くことを祈る姿を表現しているそうです。ちなみに洗礼名である「ガラシャ」は、神の恵みという意味。ガラシャと宮津との密接な関わりを知っていただくことで、ガラシャゆかりの地めぐりがより感慨深いものとなることでしょう。