文学碑でみる天橋立〜昔の人の憧れの地だった〜
古来、美しい景観で人々を魅了してきた天橋立。奈良時代の和銅6年(713)に編纂(へんさん)された『丹後国風土記』には、天橋立について「国作りの神として知られるイザナギノミコトが天と地を行き来するために架けた梯子が、眠っている間に海の上に倒れてしまい天橋立ができた」と記されています。そんな神代(かみよ)の時代から存在する天橋立は、さまざまな時代で幾度となく文学的に表現されてきました。今回は文学碑を通して、当時の人たちのエピソードや天橋立への思いを紹介します。
平安貴族たちが憧れた天橋立
『大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立』
平安時代に和泉式部(いずみしきぶ)の娘・小式部内侍(こしきぶのないし)によって詠まれたこの歌は、小倉百人一首にも収載されている有名な和歌です。
才能ある歌人として知られていた和泉式部が夫・藤原保昌(ふじわらのやすまさ)と丹後の国に赴いていた頃、京都では小式部内侍が歌合(うたあわせ)に招かれていました。当時、小式部内侍の歌は和泉式部が代作しているという噂があり、同じ歌合に招かれていた藤原定頼(ふじわらのさだより)が「(母親のいる)丹後に使いをだされましたか? 使いはまだ帰ってこないのですか?」と代作疑惑を皮肉った際、小式部内侍は即興でこの歌を詠んだといわれています。
この歌には「行く野・生野」「踏み・文」に巧みな掛詞(かけことば)と、さらに「踏み」は「橋」の縁語(えんご)というテクニックが使われており、「大江山へ行く野の道(生野の道)は遠いので、天の橋立の地を踏んでもいません(文(手紙)なんて見たこともありません)」という意味の歌を即座に歌った受け答えは高く評価されたそうです。
当時から天橋立は丹後国を代表する歌枕の地であり、一度は訪れてみたい憧れの地として認知されていました。とはいえ都から天橋立への道のりは遠く、実際に訪れるには大変な距離だったことから、平安・鎌倉時代を通じて都に住む貴族たちの多くは、天橋立を見る機会を持たなかったと考えられています。しかし、都で天橋立を題材にした詠歌が求められる時には、天橋立を模した前栽(せんざい※)や描写した衝立(ついたて)などが置かれ、実際に見たことがなくてもイメージを共有することで広く周知されていったようです。
※前栽:草木を植え込んだ庭のことで、平安時代の貴族の屋敷(寝殿造り)の場合、正殿の前庭のこと。
昔の人が宮津への旅に通ったルートについて詳しくはこちら↓
丹後時代の与謝蕪村を思い描く
『はし立や 松は月日の こぼれ種』
こちらは江戸時代中期に活躍した俳人で画家の与謝蕪村の句碑です。実はこの句、蕪村のものとは確認されていないのですが、蕪村の句として言い伝えられてきました。
松尾芭蕉(まつお ばしょう)や小林一茶(こばやし いっさ)と並び江戸時代俳諧の巨匠の一人である蕪村は、竹溪(ちくけい:宮津市にある見性寺の芳雲和尚)の誘いをきっかけに宝暦4年(1754)から3年あまりを宮津で過ごしています。
見性寺に滞在しながら鷺十(ろじゅう:真照寺の恵乗和尚)、両巴(無縁寺の輪誉和尚)など丹後の俳人と交流を深め、画業にも励んでいた蕪村は「丹後時代」と称されるほど多くの作品を残しました。
また、松尾芭蕉を尊敬してやまなかった蕪村は、同じく俳人・画家として成功した松尾芭蕉の門下生である彭城百川(さかき ひゃくせん)のことも尊敬していました。百川が宮津で描いた「八幡観の(芭蕉)翁像」を見せてほしいと懇望する書簡もあり、百川の存在は蕪村が宮津に滞在する理由の一つでもあったと考えられます。
宮津俳壇が憧れた松尾芭蕉の一声塚
『一声の江に 横たふや ほととぎす』
天橋立には松尾芭蕉の歌が刻まれた一声塚(ひとこえづか)と呼ばれる“塚”があるのですが、実は芭蕉が天橋立を訪れた記録は残っていないそうです。この一声塚が建立された明和4年(1767)頃、俳壇では低迷していた俳文芸を芭蕉の到達した高みに戻そうとする「蕉風復興運動」が湧き上がっていました。
与謝蕪村が宮津を去った後、宮津俳壇の中心人物でもあった宮津市小川にある真照寺和尚の鷺十が、蕉風復興運動の中心人物であった俳僧・蝶夢(ちょうむ)を京都から招き、宮津俳壇との交流を深めていきました。
その際、芭蕉が50歳の頃に息子の桃印(とういん)を病で亡くした悲しみを隅田川畔の住まいで詠んだ句を蝶夢が選び、天橋立の南側にある智恩寺境内に建立したものが現在の位置に移されたのだそうです。
“句碑”ではなく、あえて、神聖視されていることが多い“塚”と呼んでいたことからも、当時の俳人たちが芭蕉に強い憧れを抱いていたことがうかがえますね。
天橋立に寄り添うように建つ与謝野夫妻の歌碑
『小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波 寛』
『人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立 晶子』
明治から昭和にかけて活躍した歌人・与謝野寛(鐵幹:よさの ひろし/てっかん)と与謝野晶子(よさの あきこ)の夫婦は、寛の父が加悦(かや)出身であったこともあり度々天橋立を訪れていました。昭和5年(1930)5月、宮津に2泊した際には天橋立の作品を多く書いたといわれています。晶子の歌に詠まれている廻旋橋は現在電動式で動いていますが、この時代はまだ人力で動かして開閉していました。
また、この頃には天橋立を東西南北から展望する「四大観」が説かれており、晶子は「高処大観と云ふ通り、橋立の美は高きに登つて初めて知られるのであった。松の美のみで無く、所山の囲む海の内外の展望が更に美しいのである」と高所から見る美しさについても語っています。昭和10年(1935)に寛が逝去した後、再び晶子はこの地に訪れていますが、帰京後に病にかかり天橋立が最後の吟遊の地となったそうです。
与謝野晶子がみた当時の廻旋橋についてはこちらの記事をチェックしてください↓
昭和天皇行幸の記念に建てられた御歌碑
『めずらしく 晴れわたりたる 朝なぎの 浦わにうかぶ 天の橋立』
昭和26年(1951)の秋、対日講和条約調印から2か月後の11月11日からの4日間にかけて昭和天皇が丹波・丹後を中心に京都府内を巡幸し、13日に天橋立に訪れた時に詠った歌を、当時の侍従であった入江相政(いりえ すけまさ)氏の書で刻まれた御歌碑です。
この頃には戦時中に途絶えていた宮津の伝統文化なども復活の兆しが見え、明治33年(1900)頃から広がったとされる天橋立名物「股のぞき」(傘松公園から天橋立に背を向けて立ち、腰を曲げて股の間から景色を眺める)も天橋立ケーブルの復興とともに復活し、現在も多くの人がこのスタイルで天橋立の景観を楽しんでいます。
昔も今も表現され続ける天橋立
長い歴史の中でさまざまな手法で幾度となく表現されてきた天橋立は、時代ごとに想像の描写から実景の描写へと変化していきました。
季節や天候、時間ごとに変化する天橋立の美しさを現地で実感し、あなたの見た天橋立を表現してみませんか?
<参考文献>
・宮津市史 通史編 下巻(宮津市史編さん委員会 編/宮津市役所)
・天橋立百人一首(天橋立百人一首の会 監修/あまのはしだて出版)
・「天橋立学」への招待 “海の京都”の歴史と文化(天橋立世界遺産登録可能性検討委員会 編/法藏館)
・宮津天橋立の文化的景観 文化的景観調査報告書 (宮津市教育委員会事務局総括室 編/宮津市)
・宮津ええとこ―宮城益雄のガイドブック(宮城益雄 著/あまのはしだて出版)
・宮津市HP(歴史・文化より)(https://www.city.miyazu.kyoto.jp/life/4/)
・Re:in (https://www.city.miyazu.kyoto.jp/site/citypro/)