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“小さなちいさな美術館” 文人墨客が愛したお宿「清輝樓」

宮津を代表する旅館「清輝樓せいきろう」の名前は、知っている人も多いのではないでしょうか。創業はなんと元禄年間(1600年代末)。古くから数多くの文人墨客に愛されてきたお宿で、館内には彼らが遺していった多くの襖絵や名書、詩歌が展示されています。
普段は宿泊客や食事客しか入れない特別な空間を、13代目当主の徳田誠一郎さんに特別にご案内していただきました。

300年以上の歴史を誇る老舗旅館

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江戸時代には城下町として栄えた宮津。天正8年(1580)に宮津城が建てられ、その後約50年の歳月をかけてまちづくりが行われました。清輝樓が旅館業を始めたのは、城下町として大いに賑わった元禄年間(1600年代末)。当時は、まちの中心部の本町にありましたが、明治34年(1901)に現在の魚屋地区に移転。総2階建ての建物は、明治末期と大正初期に2度の増築が行われ、現在の姿となりました。

江戸時代には京都の画家たちが逗留。明治時代以降も、野口雨情や菊池寛、吉川英治、河東碧梧桐かわひがしへきごとう、吉田茂……と名だたる文人や政治家も宿泊。彼らは清輝樓をとても気に入り、多くの書画や詩歌などを遺していきました。
現・当主の徳田誠一郎さんは、これらの作品を見てもらおうと館内に見学スペースを複数設置。「小さなちいさな美術館」と命名し、宿泊客や食事客に向けて公開しています。

3階大広間に隠された謎とは?

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徳田さんにまず案内していただいたのは3階の大広間。地元の宴会などが行われてきた場所で、隣の広間と合わせるとなんと105畳にもなるのだそう。なんでも3階が増築された大正時代は、柱がない空間を最上階に持って行き眺望を重視するのが常識だったようです。

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「大広間でまず見ていただきたいのは、格子状の天井です。周囲がカーブしているのも特徴で、これを折上格天井おりあげごうてんじょうと呼ばれています」
折上格天井は、主に寺院など格式のある建物で採用されることが多く、特に旅館で二間続きに採用されているのは希少とのこと。

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次に紹介していただいたのが、幕末から明治時代にかけて活躍した絵師・日本画家の鈴木百年(1828~1891)が描いた『十二ヶ月押し絵貼り襖』。
「これは幕末の頃に描かれたもので、床の間の近くから1月、2月、3月、4月。入口近くから5月、6月、7月……と続いていきます」
鈴木百年の作品がこれだけ一堂に会した場所は、彼が活躍した京都の美術館でもないのだそう。現役の芸術家の方も勉強に来られるそうです。

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こちらの書は、宮城県仙台市にある輪王寺の無外和尚(1881~1943)がしたためた書です。日本三景の旅館に無外和尚の書をそれぞれ一筆ずつ遺す運動が起こり、天橋立を望む清輝樓に寄贈されたとのこと。
「当旅館の3階から天橋立を眺めるとまるで『蒼い龍が波に臥(ね)ているように見える』ことから、右から『蒼龍臥波』と書かれています」

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3階から眺める天橋立(赤で囲った箇所)

確かに。遠くから見ると龍が寝そべっているように見えますね。

かつて宮津は絵師たちのパワースポットだった?

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続いて2階の中廊下を案内していただきます。こちらにも色々と貴重な品が並べられているのですが、ぜひ見ていただきたいのが全長9m10cmを誇る『与謝江海図』。江戸時代後期の文化2年(1805)に描かれたもので、作者は不明ながら丹後半島の先端・経ヶ岬から天橋立付近まで徒歩だと約50kmにも及ぶ丹後半島の東海岸が見事に描かれています。これは当時のガイドブックのようなもので、情景描写も細か。名所やお休み処といった情報も盛り込まれ、これを見れば旅の計画もより立てやすくなったことでしょう。

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与謝江海図に描かれた天橋立
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京都丹後郷土資料館に展示されている『天橋立図』写真パネル

「雪舟(1420~1502)が描いた『天橋立図』<1501~1506>と見比べてみると大きく違うのが、天橋立の姿です。雪舟の頃には、まだ天橋立はつながっていませんが、『与謝江海図』では天橋立は現在の姿とほぼ同じです。この天橋立を実際に歩いてみると両側が水で満ち、まるで別世界へ誘われるような気持ちになります。江戸時代の絵師たちもきっと『宮津を訪れると神様の力をもらえる』『もっといい絵を描ける』と思ったのではないでしょうか。今の方には『パワースポット』という言葉を使うとわかりやすいかもしれません」

また、宮津が北前船の寄港地だったことも、文人墨客を魅了する要素だったのではと徳田さんは話します。
「色々な物資はもちろん、最先端の情報も入手できました。都では手に入らない物や情報が入る宮津は、絵師たちにとって魅力的だったのではないでしょうか」

多くの文人墨客が遺した「文人の間」

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江戸時代の絵師たちから愛された清輝樓は、明治以降も多くの文人墨客が訪れます。彼らが遺したものが展示されているのが1階の「文人の間」です。

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まず目に飛び込んでくるのが、詩人で『七つの子』や『しゃぼん玉』など数多くの童謡の名作を残した野口雨情(1882~1945)の書です。清輝樓には、大正と昭和の2回滞在したことがわかっています。

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続いて、『宮本武蔵』や『三国志』など数多くの小説を世に出し、国民的作家といわれた吉川英治(1892~1962)の書です。吉川は1943(昭和18)に天橋立の松並木内で「天橋立大学」という名のセミナーの講師として招かれ、清輝樓に宿泊しています。

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菊池寛(左)と河東碧梧桐の書(右)

多くの著名人が書き残した「画帳」には、文藝春秋社を設立したことでも知られる菊池寛(1888~1948)や、正岡子規の弟子で高浜虚子と双璧を為した俳人・河東碧梧桐(1873~1937)、元首相の吉田茂(1878~1967)の書が残ります。

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他にも、美人画で有名な上村松園(1875~1949)の絵など、ここが旅館であることを忘れてしまうほどの美術品や書などがところせましと展示されています。

宮津の歴史を知るよすがであり続けたい

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昭和1桁代から清輝樓にある柱時計。今も現役で活躍中

「小さなちいさな美術館」と銘打っていますが、もちろん本業は旅館。いくつもの困難を乗り越えてもなお営みを続ける徳田さんに、改めて清輝樓が今後宮津にとってどのような存在になってほしいかを伺いました。

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清輝樓13代目当主の徳田誠一郎さん

「私自身、英語が好きで勉強するのですが、英語は道具です。海外に行ったときに、『京都ってどんなところ?』『京都に海があるの?』と聞かれたとき、自分たちが住むまちのことを知っていないと伝わりません。おかげさまで当旅館は300年以上の営みを続けてきた歴史があり、宮津が文人墨客に愛されたまちであることを今に伝える証でもあります。『ここに来たら宮津のことはだいたいわかるよ』。そんな存在としてあり続けたいと願っています」

宿泊や食事で利用した場合のみ見学できる「小さなちいさな美術館」。まずは気軽に食事で訪れてみませんか。

<データ>
|清輝樓《せいきろう》
住所:京都府宮津市魚屋937
TEL:0772-22-4123


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