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130年以上も前に掘られた宮津の国登録有形文化財「撥雲洞トンネル」

宮津市広報

宮津市、栗田くんだ半島の付け根には130年以上も前に掘られた隧道ずいどうが今も現役で使われています。その名も「撥雲洞はつうんどうトンネル」。実はこのトンネル、日本最初期の近代隧道として国登録有形文化財にも登録されていると聞いて、早速現地へ行ってみました!

130年以上現役の「撥雲洞トンネル」

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宮津市の中心部から北東に位置する栗田峠を通る、波路地区と上司地区を繋ぐ「撥雲洞トンネル」。延長126ⅿ、幅員4.7mの隧道は明治19年(1886)に開通したものです。
ちなみに隧道とはトンネルのこと。最近ではトンネルという呼び方が一般的ですが、130年の重みと雰囲気を重視して、あえて隧道と呼ばせていただきます。

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隧道の周囲は竹林と緑に覆われた石垣。近寄って見上げた撥雲洞トンネルの印象は、どっしりした重厚感!! じっくり観察してみると、坑門(入り口)は総石造。

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アーチ環は下部がすぼまった馬蹄形で、五角形に加工された楯状迫石(せりいし:アーチを形成する石)。

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太いピラスター(装飾柱)が両脇をガッチリと支え、パラペット(胸壁)には「撥雲洞」の扁額へんがく。この扁額の文字は開通当時の京都府知事・北垣国道が書いたもので、西側の波路地区には「撥雲洞」、東側の上司地区には「農商通利」と書かれています。

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入口から出口まで126mという距離感がまた絶妙で、徒歩で渡るのに遠すぎず、近すぎず、視界に入る向こう側の景色に別世界がありそうな冒険心をくすぐられます。それでは、いざ、中へ!

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隧道内部はモルタルで補強されていますが、岩盤が剥き出しの箇所もあります。ひんやりとした冷たい空気と反響する音の大きさに、ちょっと非日常的な空気が漂います。

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隧道を抜けた上司地区(東)側からみた撥雲洞トンネルは、坑門にかかる蔦がノスタルジックあふれる雰囲気を醸し出しています。「農商通利」の扁額も少し見えにくいですが確認できます。
隧道内の道幅は車一台が通れる程度の幅なので、歩いて渡る場合は十分気をつけてくださいね。

「撥雲洞トンネル」はなぜ造られた?

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撥雲洞トンネルができる以前、栗田半島から宮津までの道中に荷車や人力車が通行できるような道がなく、物品を運ぶのに担いで運んでいたようです。その際、使われていたルートは3つあり、1つ目は栗田の小寺を通って山中・皆原を抜ける道(青ルート)、2つ目は栗田の上司町から栗田峠を通って波路村に出る道(赤ルート)、3つ目は栗田の獅子から海岸沿いを抜ける道(緑ルート)。
その中で一番の近道が栗田峠を通る道でしたが、険しい峠のため大変な苦労だったようです。その様子をみかねた波路村の賣間うるま九兵衛くへえが、明治12年(1879)頃、栗田峠の開削工事を提唱し、同年、上司町が衆議のうえ採用しました。

当時は隧道ではなく、水力によって土を流し、峠を切り下げる工法で計画されていました。明治12年(1879)6月に水路を開く工事が始まり、半年後の12月には水路が完成。上司町から資金が渡され、賣間氏は上司町に寄留し、引き続き継続工事を行います。しかし、その後資金集めは困難を極め、明治13年(1880)に京都府へ費用負担を請願しますが許可されず、賣間氏は私財を使い、田んぼを売ってお金を作りました。

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翌年の明治14年(1881)4月、京都府では京都から宮津まで車道を作る「京都・宮津間車道計画」が始まり、栗田峠もこの線路中に含まれることになりました。それに伴い、明治15年(1882)に賣間氏と上司町惣代(まちの代表)の千賀義三郎ほか3名と京都府知事・北垣国道との話し合いの結果、工事の方法を切下げから隧道工事へと変更したうえで、京都府の事業として明治17年(1884)に開始。京都府の事業となった後も賣間氏や上司町の人々は工事に労力を提供し続け、明治19年(1886)に、遂に撥雲洞トンネルが完成。8月4日に開通式が執り行われました。

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この時の工事で出た花崗岩は宮津市内の橋の材料として使用されています。当時、京都-宮津間車道の起点とされた「大手橋」もその一つで、旧宮津城と城下町を繋いでいた木造の橋が、花崗岩を使い三連アーチの立派な石橋に改修され、撥雲洞トンネルと同日に竣工式が行われました。
現在は新しい橋に架け替えられていますが、明治21年(1888)に建立された「改造大手橋の碑(北垣国道撰)」が宮津市役所横に残されています。

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旭橋

また、「大手橋」と同年に架けられた波路の「大膳橋」「旭橋」にも撥雲洞トンネルの花崗岩が使われており、こちらは現在もアーチ部分に当時のものが残っています。

賣間九兵衛を讃える石碑

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撥雲洞トンネルの波路側には、賣間九兵衛の功績を讃える石碑が建てられています。これは明治42年(1909)、当時の栗田村、城東村、宮津町の運送業者の寄付によって建てられたものです。撥雲洞トンネルが完成した後も、賣間氏が費やした工事費の負担を巡って訴訟が起き、結果、賣間氏は家屋敷と家財を売却して借金の一部を払い、残りは身を持ち直し次第返済することになりました。

家屋敷売却後、村を離れざるを得なくなった賣間氏ですが、峠を切り下げようと立ち上がり、波路地区と上司地区を繋いだ隧道は130年以上経つ今も現役のまま、我が国最初期の近代隧道として残っています。「撥雲洞」の撥雲とは暗雲をはらうという意味だそうです。険しい栗田峠を渡る人たちの不安な気持ちを払った隧道にふさわしい名前ですね。

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