江戸時代から続く宮津市の無形民俗文化財「漁師町の浮太鼓」
宮津市の郷土芸能である漁師町の「浮太鼓」。江戸時代、宮津城主によって藩祭と定められた山王宮日吉神社の「山王祭(宮津祭)」で、浮太鼓は毎年神輿とともに町を練り歩きます。江戸時代後期にはすでに存在していたことが記録にも残る、歴史深い漁師町の浮太鼓に注目してみました。
浮太鼓の由来とは?
漁師町に伝わる「浮太鼓」とはどのようなものなのでしょうか?
実は、その由来や詳細は不明とされているのですが、疫病祭や念仏、田楽の芸能に起源を持つ、丹後地域の「太鼓打楽」の流れをくむものといわれています。
しかし、山王祭の祭礼行列覚の記録によると、寛永元年(1789)から、天保12年(1841)の間に、名称が「太鼓」から「浮太鼓」に変わっていることから、この間に郷土芸能として「浮太鼓」が確立されたのではないかと推測されます。
浮太鼓の役割と伝統的スタイル
浮太鼓の役割は2つあるといわれています。
ひとつは祭りの儀式の中で、神輿の担ぎ手を奮い立たせ、出御から宮入りまでを一体となり執り行う役割。もうひとつは賑やかに打ち踊り、祭りを楽しむ芸能としての役割です。
浮太鼓で使われる桴(ばち)は、丹後地域特有の先端のみが太くとっくり型をした短い桴に、色とりどりの華やかな房飾りが付けられたものを使います。太鼓を打っている間は常に全身でリズムを取りながら、小気味良い音を打ち鳴らします。音を鳴らさない休止符の間に見せる頭上で桴を振り回す動きは、浮太鼓の特徴的な動きのひとつ。腕の振り下ろしから視線の動きまで、「技」と「形」を守り、伝統を繋げてきました。
また、太鼓の様式は2種類あり、担い太鼓で打つ様式と、大きな屋台形式の楽台に大型鋲打ち太鼓1個と締め太鼓3個を載せて打つ様式があります。
山王祭ではどちらも神輿について練り歩きますが、屋台形式の楽台が丘の上にある山王宮日吉神社の境内に上がらないことから、担い太鼓の様式の方が古くからあり、後に屋台形式が加わったと考えられています。
山王祭と浮太鼓
毎年、5月13日から5月15日にかけて行われる「山王祭(宮津祭)」。13日には太神楽の巡行、14日にはそれに浮太鼓が加わり、本祭りに当たる15日には儀式や奉納が行われます。
本祭り当日、浮太鼓は10時30分に社参、宮司家前に傘鉾を立て、その下でお囃子と「よいやーさー」の声に合わせ子どもから青年、青年から大人へと順番に交代しながら太鼓を打ち、最後は日吉の神の神使である猿を表す赤い烏帽子を被った師匠二人が締めくくり、しきたり通りの浮太鼓が演じられます。その後、11時より本殿で行われる神様の御霊を神輿に写す「神幸祭」の間、浮太鼓の早打ちを行い、御霊を乗せた神輿とともに渡御に向かいます。
山王祭では、拝殿で浮太鼓の歌舞を「奉納」する時間が設定されていません。それは、浮太鼓の社参から神幸祭までの一連の流れが「儀式そのもの」といえるため、あえて「奉納」という形式が取られていないのだそうです。
祭りの日、身に纏う着物に入った二つ矢羽根の紋は、山王宮の神輿担ぎと漁師町の浮太鼓の証だそうです。誇りと伝統を背負い、継承し続けてきた浮太鼓は、宮津を代表する郷土芸能として、宮津市の無形民俗文化財に指定されています。