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平和と幸せの祈りを込めた大蛇が集落を行く「蛇綱(じゃづな)」

藁で作られた大蛇を担いだ一行が、集落を練り歩く……。その光景のインパクトに思わず驚いてしまうこの行事は、無病息災を願って行われる蛇綱。平和を祈る気持ちとともに受け継がれる、この地域ならではの祭りを紐解きます。

冬景色の中を大蛇が進む、稀なる祭り

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宮津湾岸から3km程ほど内陸に入った、およそ30世帯が暮らす小さな集落・今福地区。寒い冬の朝、この長閑な集落に螺貝の音が響き渡ります。それを合図に男性4.5人が担ぎ出してきたのは、なんと大蛇。と言ってももちろん本物の蛇ではなく、全長6mほどの、藁で編まれた蛇です。これは、この地区に古くから伝わる蛇綱。村の平穏と無病息災を願い、毎年1月19日に行われています。

地域の人々のふれあいで、祭りを未来へ繋げ

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祭りが始まるのは、1月18日に行われる蛇作りから。公民館に地域住人が集まり、近隣地域で刈り取ったもち米の稲を乾燥させた藁を使って蛇を編みます。その作り方は代々口伝えされており、蛇綱作りは地域の人々の大切な交流の場にもなっていますが、近年は後継者が減り、継承が難しくなりつつあります。特に頭を形作るのは難しく、現在その手順を知っているのは一人だけ。作り方を途絶えさせないよう、次の世代に教え伝えながら準備を進めるのだといいます。

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太い縄のような胴体は、その長さに耐え得るよう細い縄で縛って補強されます。頭は口がパカリと開くように作られ、中には舌に見立てた真っ赤な布が。目と鼻は木製で、近くで見るとその表情は荒々しくも、どこかひょうきんにも見えてきます。

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祭り当日の1月19日の朝には、人々が今福公民館に集まり、女性たちが用意した甘酒などが振る舞われます。螺貝の音を合図に蛇が建物から担ぎ出されると、集まった人たちの頭を順番にガブリ。頭を噛んでもらうことで、厄除などのご利益があるのだそう。

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そして、「蛇綱」の文字が背中に入ったそろいの法被を着た男衆が蛇を担ぎ、集落に繰り出します。螺貝の音を響かせながら一軒ずつ家々を回り、住人の頭を噛んで回るのです。懐かしさの残る風景の中を、大きな蛇が行く様子は圧巻。遠くから見ると、本物の蛇が体をくねらせて力強く進んでいくようです。

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村を一周したら、地域の氏神である荒木神社に到着。男性たちが境内のイチョウの木に登り、蛇を巻き付けたところで、祭りは終了です。蛇は一年間ここで村を見守り続け、年末の神社の掃除の際にその役目を果たして燃やされます。

切なる祈り、断絶、そして復活

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蛇綱がいつどのような経緯で始まったのか、残念ながらその起源はわかっていませんが、集落の人々の間では昔から、人々の無病息災と幸せを願って江戸時代末期に始まったと言い伝えられてきました。今福地区の古刹・智徳寺には『過去帳』という文書が残されており、ここには確かに江戸末期に、多くの人が亡くなった年が見受けられます。このことから現在では、疫病が流行するなどして大勢が亡くなった年をきっかけに祭りが始まったのではないかと推測されています。現代に比べ医療の進歩も乏しい時代、病の流行という恐怖を前に、人々にとって祭りで平穏を願うことが、何よりの対処法だったのでしょう。
その後、蛇綱は若者たちによって催されてきましたが、第二次世界大戦で継承が途絶えてしまいます。しかし1980年(昭和55)頃、祭りは地域の老人会である「今福福寿会」によって復活を遂げます。会のメンバーは、幼い頃に蛇綱を実際に経験したことがある人たち。「私たちが継承しなければこの文化は完全に消えてしまうと思いました」と、今福福寿会の杉田さんは振り返ります。

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「私が幼い頃は、村の入り口の大きな柿の木に蛇をかけていました。そこは通学路で、毎日蛇を見ながら学校に通ったものです。大口を開けた大蛇なのに不思議と怖くはなく、木の上からいつも見守ってくれているんだなと、心強く感じていたのを覚えています」と杉田さん。現在の蛇綱にも、毎年地域の子ども達が参加しています。彼らの心にもきっと同じように、その思い出は残り続けることでしょう。人々が平和と幸せの祈りを込めた大蛇は、数百年もの時を超えて今も、これからも、今福の人々を見守り続けるのです。


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