時代の変革期・明治の宮津に設立された「天橋義塾」とは?
明治8年(1875)から約10年間、宮津には「天橋義塾(てんきょうぎじゅく)」という有志によって作られた私塾が存在しました。明治8年といえば、明治維新の中心となった薩長などの藩閥政府に対抗して、「民主的な政治」を目指した自由民権運動が盛り上がりをみせた頃です。この時代の変革期に、宮津にも熱い思いを持って時代と向き合う若者たちが集う場所がありました。
「天橋義塾」はなぜ作られたのか?
宮津には文化15年(1818)創立の藩校・礼譲館(れいじょうかん)(のちに文武館(ぶんぶかん)と改称)がありましたが、明治4年(1871)の廃藩置県で藩校は廃止されてしまいました。翌年(1872)、明治政府による国民に教育を施す“学制”の公布により、全国各地に小学校が作られましたが、宮津には小学校を出たあと、若者が学ぶところがありませんでした。
「これでは優秀な人材が育たない。政府やこれからの京都の発展に尽くす人材を育てるにはどうしたらいいか」と相談を受けた小室信介が、新しい時代を担っていく若者を育てる義塾(身分に関わらず一般の子弟が学術を平等に享受する私設の学舎)を作ることを提案しました。
大義を求め自分たちの力で素晴らしい義塾を作る。そのような思いのもと、宮津小学校に間借りをするかたちで、天橋立にちなんで名付けられた「天橋義塾」が誕生しました。
天橋義塾の中心的存在となった2人の人物
天橋義塾には中心的人物が2人いました。義塾の設立を提案した小室信介(こむろしんすけ)と、のちに天橋義塾の社長となった沢辺正修(さわべせいしゅう)です。
小室信介は、元の名前を小笠原長道といい、嘉永5年(1852)宮津藩砲術指南役の家に次男として宮津の柳縄手に生まれました。藩校・礼譲館で学んだあと、京都府綴喜郡井手村の小学校教員を務めていましたが、天橋義塾が設立された年、政財界で活躍する小室信夫の娘婿となり、小室信介に改名。養父の小室信夫は自由民権運動の発端となった「民撰議院設立の建白書」に板垣退助らと名を連ねる一人でもあります。
沢辺正修も旧宮津藩士で、安政3年(1856)宮津の柳縄手に生まれました。曽祖父に文政一揆(文政5年に発生した一揆で宮津藩史上最大の事件として語られている)の藩財政責任者である沢辺北溟(さわべほくめい)をもち、藩校・礼譲館で学んだあと、京都府綴喜郡田辺村の小学校で校長を務め、天橋義塾設立後、明治11年(1878)に社長となり、自由民権思想の普及に努めました。
天橋義塾が目指したものとは
天橋義塾にゆかりのある大村邸跡。ここ柳縄手通りから、沢辺正修、小室信介ら多くの支援者や後援者が輩出されている。
小室信介は天橋義塾設立の目標に「優れた人材を育み、初等教員の養成と民権が伸びやかに育つこと」などを掲げ、勉強は勿論、国民の権利を説き、自由民権の考えを教えることを目指しました。
義塾の運営は授業料と維持講などで賄っていました。資本金を集めるために各地で集会が開かれ、小室信介や沢辺正修が自由民権について説き、時には天橋義塾の生徒たちが日頃学んだことを熱く語るなど、宮津での自由民権運動の中心的な場所でもありました。
未来に熱意を持つ天橋義塾の若者たちの評判は良く、設立当初は士族(旧武士階級)の子どもが多かったのですが、次第に町人や村人の子どもも通うようになり、義塾はいっそう活気づいていきました。
天橋義塾の終わり
全国的に自由民権運動が高まりをみせる中、政府は運動の抑え込みに乗り出します。
京都府では義塾の解散を意図して、公立中学校の設置が進められました。明治18年(1855)に京都府立宮津中学校が開校し、その際、天橋義塾の敷地が提供されたほか、多くの社員も教師として参加していました。
しかし、翌19年に中学校令が公布され、公立中学校は一府県に一校と限定。宮津中学校はわずか1年半で閉校することになりましたが、中学校閉校後、天橋義塾には再開する余力はなく、明治20年に解散となりました。
明治の変革期にわずか10年ほどですが、宮津の人々が新たな時代と未来に希望を抱き作った義塾。街に残る「天橋義塾」の痕跡は、柳縄手を中心に石碑や案内板でしか残っていませんが、近くを通ったら少し足を止めて、短くも深い“歴史の痕跡”に目を向けてみてください。