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【天橋立#2】超一流の文化人たちが表現したくなる絶景・天橋立

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日本三景のひとつ「天橋立」。奇跡の絶景として古代より人々の心を魅了し続けてきた“謎多き天橋立”の魅力を連載記事で紐解きます。第2回は、神話や百人一首、日本三景など、「文化」の面から見た天橋立をご紹介します。

神話にも登場。信仰の対象、聖地化する天橋立

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奈良時代の和銅6年(713)に編纂された「丹後国風土記」に天橋立のことが記されています。それは国作りの神として知られるイザナギノミコトが天と地を行き来するために架けた梯子が、眠っている間に海の上に倒れてしまい天橋立ができたというもの。
それ以前の古墳時代中期から、天橋立を見渡せる難波野遺跡で何度も祭祀が行われた跡(上の写真〈公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター〉)が見つかり、神秘的な地形そのものが信仰の対象になっていたようです。

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写真(公益財団法人 京都府埋蔵文化財調査研究センター)は、難波野遺跡からの天橋立眺望。
また、奈良時代には丹後国府(国府とは今でいう県庁所在地)が置かれるとともに、聖武天皇の詔により天橋立を正面に望める立地に国分寺を建立。それにより丹後国府に赴任した国司や、国分寺を訪れた僧たちにより神聖視された天橋立の景観は、京の都へと伝えられていき、貴族の間でも広く知られていくことになるのです。

百人一首や国宝絵画にうかがえる憧れの地、天橋立

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国民的カルタ『小倉百人一首』にも天橋立は登場します。「大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立」はご存知の方も多いのでは。この和歌を詠んだのは、和歌の名人・和泉式部を母に持つ小式部内侍(こしきぶのないじ)。
11世紀頭には既に貴族の間では、和歌に詠んだり、衝立や屏風に天橋立を描いたり、天橋立をモチーフに庭園を造ったりしていたそうで、天橋立が一度は訪れてみたい憧れの地として認知されていたことがうかがえます。

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天橋立を描いた驚異の超大作と言えば、国宝・雪舟『天橋立図』(1500年頃作)。おおよそ畳一枚分の大きさです。京都国立博物館に所蔵されており、京都府丹後郷土資料館ではレプリカ(上の写真)に出合うことができます。
『天橋立図』は、画家として室町時代に活躍した禅僧・雪舟が天橋立を描いた水墨画で、雪舟の代表作の一つ。天橋立と府中の街並み、成相寺、籠神社、智恩寺、丹後国分寺など天橋立を取り巻く宗教施設が緻密に描かれています。
実は、20枚の小さな紙を継ぎ合わせていることから「下絵」であることがわかっていますが、雪舟がだれに頼まれて何のために描いたのか、本絵がどこにあるのか未だにわかっていません。

「日本三景」として大衆に広く知られる名所、天橋立

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このように芸術や文化を通じて名所化した天橋立は、江戸時代に物見遊山の旅が流行することで、さらに認知度を高めることになります。
儒学者・林羅山(らざん)の子、春斎(しゅんさい)が、寛永20年(1643)発行『日本国事跡考』で、松島を天橋立・厳島とともに「三処奇観たり」と名所3つをセットにして述べたことがきっかけで、「日本三景」という発想が生まれました。

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その後、元禄2年(1689)儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)の紀行文『己巳(きし)紀行』(きしきこう)では、「中村【成相乃麓也】 より観音堂まで十六町の坂をのぼる、其路甚嶮峻にて、輿馬の往来也かたし、(中略)此坂中より、天橋立、切戸の文珠、橋立東西の与謝の海、阿蘇の海目下に在て、其景言語ヲ絶ス、日本の三景の一とするも宜也、・・・」と記されています。
「日本の三景の一とするも宜也」=「日本三景の一つと言われるのもその通りだな」と益軒が記していることから、この頃、既に日本三景が世間に定着していたことがわかります。
写真は成相寺本坂道(ほんさかみち)の道中にある益軒観展望所。江戸時代の旅人の多くが成相寺に参詣する際にこの景観を楽しんでいました。

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また江戸時代の売れっ子浮世絵師・歌川広重の手により、日本三景としての天橋立が描かれることで、日本の絶景として周知されることになりました。(写真は舞鶴市糸井文庫所蔵「日本三景之内陸奥松島」「日本三景之内安芸宮島」「日本三景之内丹後天橋立」)

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もちろん著名人も多数訪れており、写真は天橋立松林に佇む与謝蕪村の句碑。「はし立や松は月日のこぼれ種」と刻まれています。
これほど古くより文化人たちの創作意欲をかきたててきた天橋立。実際に訪れてパワーを感じてみたくなりますよね。世界遺産に登録され、世界中の人に知ってもらえる日もそう遠くはないかもしれません。
次回は、天橋立の主なビューポイントについてご紹介。2020年「天平観」が新たに加わりました!お楽しみに。