文庫本をポケットに……宮津に残る『山椒大夫』ゆかりの地を巡る
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文庫本をポケットに……宮津に残る『山椒大夫』ゆかりの地を巡る

明治・大正時代を代表する作家・森鴎外もりおうがい。彼の晩年期の代表作のひとつに『山椒大夫さんしょうだゆう』という小説があります。主人公の安寿あんじゅ厨子王ずしおうが人買いにあったために母と引き離され、船で運ばれたどり着いた場所が現在の宮津市由良です。今回は、由良の地に今も残る『山椒大夫』の舞台を巡ってみます。

『山椒大夫』を読んだことがありますか?

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安寿と厨子王(安寿の里もみじ公園)

ところで皆さんは小説『山椒大夫』を読んだことがありますか? 
何となくお話の流れは知っている、主人公が「安寿」と「厨子王」だということくらいはわかるという人はいても、しっかりと読んだことがあるという人は実は意外と少ないかもしれません(かくいう筆者もその一人でした)。

それでは、簡単にあらすじをご紹介します。

平安時代のお話です。筑紫(現在の福岡県)にいる父(平正)を訪ねて、母とともに旅に出た姉の安寿と弟の厨子王。越後(現在の新潟県)で人買いにだまされ、母は佐渡島に、安寿と厨子王は流れ流れて丹後・石浦の分限者(金持ち)だった山椒大夫に買われてしまいます。ふたりは山椒大夫の奴隷として、安寿は汐汲しおくみを、厨子王は柴刈りをさせられますが、互いに思いやり、涙をこぼして父母を思う暮らしを続けていました。しかしある日、逃げ出して父母に会いに行きたいとこぼしたのを山椒大夫の息子・三郎に聞かれてしまします。罰として焼きごてを額に当てられ、泣きながら小屋に帰り、いつ寝たかわからずまま、翌朝目を覚ますと、額のやけどはなく、守り本尊に傷がついていたのでした。このことがあってから安寿は言葉少なに。何か内に秘めた様子を感じ取った厨子王は、姉のことを心配します。

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安寿と厨子王がたどりついた由良海岸

季節が春になると、安寿は弟と一緒に山の仕事をさせてもらうよう直訴します。山の頂にたどり着いた安寿は厨子王に京都までの道を伝え、守り本尊を弟に託すと「一人で佐渡に渡って母を救い、そして自分を助けてほしい」と言いました。京都へと旅だった厨子王を見送ると、安寿は入水しました。

その後、寺にかくまわれたのち、僧形となった厨子王は京都で時の関白・藤原師実ふじわらのもろざねと出会います。師実は、厨子王が持っていた守り本尊が、平氏の先祖である高名な家柄に伝わるものだと知り、厨子王のことを「筑紫へ左遷された平正氏の子に違いない」と、自分の家の客人としてもてなしました。

やがて元服した厨子王は名を正道と名乗り、今度は国守として丹後へ向かいます。最初のまつりごとには、自らが被った、人の売買を禁ずるおふれを出しました。そして、姉の言葉に従い、母親を探すため佐渡を訪れますが、母の消息はなかなかつかめません。ある日、襤褸ぼろを着た盲目の女に出会います。何やら歌のようなものを口ずさんでいるので聞いてみると、それは安寿や厨子王を恋しく思う歌でした。正道は守り本尊を額に押し当てます。すると、女の目には潤いが戻り、ふたりは母子として固く抱き合うのでした。

『山椒大夫』と『安寿姫と厨子王丸』は同じ話?

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森鴎外著『山椒大夫』は、彼の完全な創作ではありません。中世に書かれた説教節『さんせい大夫』をモチーフに、小説に仕立てたものです。同じく、日本の童話『安寿姫と厨子王丸』は、『さんせう大夫』を子ども向けに改編されました。

鴎外は、随筆『歴史其儘そのままと歴史離れ』のなかで、伝説の筋書きを元にしつつ、登場人物の年齢から実際の年号を振り当て、そのうえで辻褄が合わないものや鴎外なりの解釈を加え、小説的な脚色を加えたことを書き残しています。

また童話『安寿姫と厨子王丸』には安寿姫が拷問される場面や山椒大夫が処刑される場面などが描かれていますが、『山椒大夫』にはこうした残酷な場面はほとんど切り捨てています。また童話では安寿と厨子王は三郎から額に焼きごてを当てられる罰を与えられますが、それも小説のなかでは夢の中の話に変えています。鴎外は、同じく随筆『歴史其儘と歴史離れ』のなかで、「伝説其物をも、余り精しく探らずに、夢のやうな物語を夢のやうに思ひ浮べて見た」と書き記しました。鴎外は、母と別れて苦しい道をたどる姉と弟に、これ以上辛い思いはさせたくなかったのかもしれませんね。

『山椒大夫』の舞台を巡る

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安寿と厨子王をまるごと巡る観光MAP(道の駅 海の京都 宮津等で入手可)

残念ながら、安寿や厨子王の実在を示す資料はありません。しかし、宮津市由良には、安寿姫と厨子王丸の身代わりとなったといわれるお地蔵様が祀られている寺院や山椒大夫のモデルと思われる「三庄大夫」にゆかりの地などが点在しています。

■■如意寺

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如意寺地蔵堂

京都丹後鉄道宮津線の丹後由良駅から歩いて5分ほどの場所にある如意寺。こちらの寺院は、615年に用明天皇の第三皇子・麻呂子親王が建立したという伝承が残っています。その後、細川忠興により再興され、以来、宮津藩主の祈願所となりました。

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境内の地蔵堂に安置されている「金焼地蔵菩薩」(京都府指定文化財)は、運慶とともに東大寺南大門の金剛力士像を手がけた快慶がまだ無名時代に手がけたもの。右の肩に焼き跡があり、焼きごてを当てられた安寿と厨子王の身代わりになったものだといわれています。このことから本尊は「身代わり地蔵」と呼ばれ、厚い信仰を集めています。

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金焼地蔵菩薩(提供:如意寺) 右の肩口に火事に遭ったときの焼け跡が残っています。

「かつてこの寺は、由良ヶ岳の中腹にありましたが、火災が原因で今の場所に移りました。お地蔵様の肩口は、その際に焼けたものだと思われます」と語るのは、同寺で住職を務める増田憲嶺さん。
「今でも、手術の無事を祈って一心に手を合わせる方もおられます。いつも誰かの身代わりになって人々を救ってきたお地蔵様は、同時に多くの人々の祈りによって支えられてきたという側面も忘れてはいけません」

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また境内には、山椒大夫の首塚もひっそりと祀られています。こちらも訪れたときにはぜひお参りしてください。

<データ>
如意寺
TEL:0772-26-0205
住所:宮津市由良2358
時間:9:00~16:00
休日:無休
参拝時は要事前連絡

■■由良海岸(汐汲浜)

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目の前に広がる若狭湾と白い砂浜が美しく調和した由良海岸。全長約2kmのロングビーチは夏には多くの海水浴客で賑わいます。『山椒大夫』の物語の時代には、多くの人や荷物が集まるみなととして栄えたことが書かれています。安寿姫は海岸の北側にある場所で1日に三荷(一荷=天秤棒の両端にかけて一人で肩に担えるだけの量)の塩水を汲みに来たといわれています。

<データ>
由良海岸
住所:宮津市由良
立入自由

■■森鴎外文学碑

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汐汲浜の近くには、『山椒大夫』の作者・森鴎外の文学碑が建てられています。鴎外自身、由良を訪れたという記録はありませんが、もし鴎外ならこの景色を見てどう思うでしょうか。鴎外になった気分で美しい海を眺めてみてもよいかもしれませんね。

<データ>
森鴎外文学碑
住所:宮津市由良
立入自由

■■安寿の里もみじ公園

安寿_Fotor

秋には数百本のもみじが色づく、由良随一の紅葉の名所。秋以外も、アジサイやツツジを楽しめる、花の名所です。園内には、『安寿姫と厨子王丸』の像があり、展望台からはのどかな由良川の景色と日本海を望むことができます。

<データ>
安寿の里もみじ公園
住所:宮津市石浦
入園自由

■■山椒大夫屋敷跡

看板

かつて山椒大夫がいたとされる宮津市石浦。ここには、山椒大夫屋敷跡という史跡があります。丹後には、昔から山椒大夫の物語によく似た「山庄略由来」という話が版木として保存されています。また、この辺りを中心に由良川の下流や川上一帯にわたり山椒大夫伝説に関わる遺跡が数多く残されていることから、この場所に屋敷跡があったと伝わっています。現在は、近くの小山に点在する多くの古墳群が残るだけですが、その規模からして相当の勢力を持っていた豪族の住居があったことがうかがえます。江戸時代の儒学者・貝原益軒かいばらえきけんも元禄年間にこの辺りを旅したとされ「石浦といふ所に山椒大夫の屋敷の跡とて石の水船あり」と書き留めています。現在は、草木が生い茂っているため入ることは難しいですが、立ち並ぶ木々の向こうに山椒大夫の屋敷があったと思うと、物語の世界に迷い込んだような気分を味わえます。

<データ>
山椒大夫屋敷跡
住所:宮津市石浦

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弟・厨子王のために自らを犠牲にした安寿姫。そして、国守となり母を求めて佐渡島へと向かった厨子王。盲目となっても子どもたちを案じ続けた母。互いに互いを思いやる家族の姿は、読む人の胸をとらえて離しません。その舞台となった由良・石浦を、あなたも訪れてみませんか。

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